ブッダの宗教革命~BBQから心へ 吉祥経&ダンマパダ63偈&第二の火経(増支部7集)を読む|ゆるねこ仏教オンライン講座37(18 June 2024)
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- Опубликовано: 10 фев 2025
- スマナサーラ長老監修『ゆるねこ×ブッダの言葉』インプレス刊をテキストにした〈ゆるねこ仏教オンライン講座〉第37回の動画です。2024年6月18日(火)19時から宮崎ダンマサークル勉強会としてZOOM開催した内容をもとに編集しました。(約91分)
0:00:00 ブッダの宗教革命~BBQから心へ 吉祥経&第二の火経(増支部7集)を読む
0:00:30 ■こころおだやかにニャる ゆるねこ×ブッダの言葉 2024年6月の言葉
尊敬に値する人を素直に尊敬できることが幸福の条件です
0:01:56 パーリ語の原文を読む(吉祥経より)
Maṅgalasuttaṃ 吉祥経(小誦5,経集16)
KhN.5-3(Sn.262)
Asevanā ca bālānaṃ
Paṇḍitānañca sevanā
Pūjā ca pūjaneyyānaṃ
Etaṃ maṅgalamuttamaṃ
小誦5-3偈(経集262偈)
愚者たちに親近せず、
賢者たちに親近すること、
供養するに相応(ふさわ)しい人々を供養すること
これが最上の吉祥です。
(和訳:日本テーラワーダ仏教協会)
0:07:37 ■愚者とは? 賢者とは?(Dhammapada 法句 63偈)
Yo bālo maññati bālyaṃ
Pandito vāpi tena so
Bālo ca paṇḍitamānī
Sa ve bālo’ ti vuccati
無知な人が自分の無知※に気づくならば、 ※若さ・青さ・未熟さ
その人に賢者と言うべきです。
無知な人なのに、自分が賢者だと勘違いしているならば、
その人こそが本物の愚か者です。
(和訳:スマナサーラ長老)
“私は何でも知っているのではない、と気づいたところで人間の進歩の道が現れた”
(スマナサーラ長老 パティパダー2024年4月号巻頭法話より)
0:20:11 ■〈供養するに相応しい人々(火)〉Dutiyaaggisuttaṃ 第二の火経(AN 増支部7-47)を読む
Dutiyaaggisuttaṃ 第二の火経(AN 増支部7-47)|光明寺経蔵
komyojikyozo.w...
0:24:26 バラモンとブッダの対話???
0:25:57 見解の一致???
0:27:33 アーナンダ尊者のダメ出し
0:28:59 正しい問いの仕方を教える
0:30:08 素直に従うウッガタサリーラ婆羅門
0:36:03 苦をもたらす三つの凶器(身口意)
0:38:24 思考(殺害意志)という凶器
0:39:21 善のつもりで罪を犯す
0:40:52 言葉(殺害宣言)という凶器
0:42:57 行為(殺害実行)という凶器
0:44:49 避けるべき三つの火(貪瞋癡)
0:46:03 欲という危険な火
0:47:35 怒りという危険な火
0:48:59 無知という危険な火
0:50:19 供養されるべき三つの火(三種の人)
0:52:45 人間ならば世話すべき存在(母父)
0:55:39 家長の扶養義務(家族と使用人)
0:58:35 功徳を積みたければ(仏道の聖者)
1:08:17 儀式の火には意味も価値もない
1:12:42 生贄儀式の放棄~ブッダの宗教改革(革命)
1:16:52 質疑応答1:生贄の放棄から牛崇拝へ(基本はバカだけど…)
1:20:17 質疑応答2:賢者の条件(アップデートし続ける心構え)
1:30:27 終わりの挨拶
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佐藤 哲朗(さとう てつろう)
1972年、東京都生まれ。東洋大第二部文学部印度哲学科卒業。ライター・雑誌編集者などを経て2003年から日本テーラワーダ仏教協会事務局長、現・編集局長。インターネットを通じた伝道活動、アルボムッレ・スマナサーラ長老の著作編集を担当。
著書に『大アジア思想活劇―仏教が結んだ、もうひとつの近代史』『日本「再仏教化」宣言!』共にサンガ。共著に『日本宗教史のキーワード』慶應義塾大学出版会などがある。
note: note.com/naagita/
Twitter: / naagita
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~
サムネイル画像出典
pixabay.com/ja...
#パーリ仏典 #仏教心理学 #スマナサーラ長老
私自身、枷が外れた瞬間がきた時に「おお!枷が外れた!」とはっきり認識したので、この例えはすごい同意できます!
ありがとうございます!
動画の御配信有難うございます。
動画の配信いつもありがとうございます。
儀式の火には意味も
価値もないとお釈迦様はおっしゃっておりますね
いっぽう、スッタニパータ、大いなる章の
マーガ、セーラの箇所で、
正しく祀りを行うならば、梵天界へ生まれる
火への供養は
祭祀のうちで、最上のものであるとも書かれておりました。
これはどのようにとらえたらよろしいでしょうか??
コメントありがとうございます。
セーラ経には、
「火への供物は頂点たる供犠である。サーヴィッティーは聖語のうちの頂点である。
王は人間のうちの頂点であり、諸々の河のうち海が頂点である。
星々のうち月が頂点であり、太陽は輝くもののうち頂点である。
功徳を願い、供養する者たちにとって、僧伽が頂点である」と。
とありますね。この偈の3行目までは、世間の常識を述べています。
釈尊が言わずとも、世間の人が当たり前に思っていることです。
(王を人間の頂点とする、というのはバラモンにとっては面白くない話ですが、古代インドのコンセンサスとしてはそうだったでしょう。)
そのように、常識に類することを述べておいて、最後に釈尊が「供養の対象としてはサンガが最上なのだ」と宣言するのです。
これは強調のレトリックなので、釈尊が火の儀式を評価していた、という話ではありません。
ちなみに、『長老偈』には仏弟子になったバラモンが火の儀式をしていた過去を振り返る偈が残されています。
じつに私の利益のため、仏陀はネーランジャラーへおもむいた。
私は彼の法を聞いて邪見を捨てた。
私は種々の供犠祭を祀り、火への供物を捧げていた。
「これが清浄である」と考える、盲目の凡夫であった。
見という叢林に入り込み、執着によって迷っていた。
清浄ならぬものを清浄と考える、盲目の凡夫であった。
私の邪見は捨てられ、諸有は全て破られた。
私は如来を供養されるべき火として、捧げ、礼拝する。
私の諸々の愚痴は全て捨てられ、有愛は破られた。
生の輪廻は消失した。いまや再有は存在しない。
(長老偈203「ナディーカッサパ長老偈」)
バラモンの火の儀式を行なっていた自分を振り返って、邪見に執着する「盲目の凡夫であった」と述べています。
釈尊のもとで出家して真理に達した彼は、その悟境を次のようなレトリックで表現するのです。
「私は如来を供養されるべき火として、捧げ、礼拝する」と。
以上、参考になれば幸いです。
ご解答頂き、誠にありがとうございました。
よく理解できました。
「私は如来を供養されるべき火として、捧げ、礼拝する」
すばらしいですね
これからも佐藤様の動画配信、楽しみにしております!